あらすじ
遠江の国府・ 見付の祇園会では東坂と西坂が舞車(車付きの舞台)を出し、神前で旅人に舞を舞ってもらうことが習わしとなっている。東坂の舞車の頭は、翌日に迫った舞車の舞手がまだ見つからないので、似合わしい人を探して旅人を待っていた。一方、こちらは鎌倉に住む男。都から連れ帰った妻が、自分の留守中に親に追い返されてしまったため、妻を尋ねて都へ向かう旅に途中、ここ見付の宿場へとやってくる。東坂の頭に宿を借りた鎌倉の男は、人を探す途中だと一旦は断ったもの、神様のお引き合わせもあろうかと思い直して、翌日の舞車での舞を引き受ける。
翌日、いよいよ神前での舞が始まる。まず西坂の舞手は都の女で、静御前の白拍子の舞を舞う。東坂は鎌倉の男が舞手となり、菅丞相の妻戸の舞を舞う。どちらも見事な舞だったので、もう一番所望との声がかかりそれそれ何の曲を舞うかを相談するが、偶然2人とも、大磯の遊女虎御前が曽我十郎祐成に名残を惜しむ場面を舞うと言ったため、今度は東西の舞車を寄せて並べ、東西の舞手による相舞になる。舞の途中で、鎌倉の男は隣で舞う女が別れた妻であることに気づく。しかし舞の途中なので、喜びを心に2人は見事な舞を舞い、再会を喜び合った。
解説
水陸交通の要衡であった見付は西国と東国の接点であり、交易を担う町人の自治都市として栄えていた。町衆がこぞって行う祇園会の東西の車上で邂逅するのは鎌倉の男と都の女。見付の地にふさわしい物語の展開を遂げるこの作品は、戦国時代の能役者の活躍を思わせ、風流そのものを舞台化したにぎやかな進行である。
舞車の謡曲は、観世流二世・世阿弥(1363〜1443年)在世の頃、宮増某(金春禅鳳との説もある)によって作曲されたもので、記録に残る最後の上演は鳥取池田藩の芸能記録正徳2年(1712)である。江戸時代に一度途絶えてしまったものが、平成元年国立能楽堂で「舞車」が舞われた際、今まで途絶えていた謡曲を復元するということで、国立劇場能楽堂調査養成課で資料の収集・考察がなされ、「国立能楽堂上演資料集・二」として出版された。磐田市内でも見付宿町の水野家に元禄6年(1693)の練習台本が保存されているが、この資料集によれば、流布本だけで28本あり、内容もそれぞれ異なっているとのことである。
別れた夫妻が舞車の上で再会するという恋物語は、東坂から西坂までの見付宿の長い舞台があって、初めて演出が整うものである。
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