参考資料


● 早太郎伝説

● 山住信仰

● 天竜川の文化

● 烏喙将軍





早太郎伝説

 磐田市見付に鎮座する矢奈比売(やなひめ)天神社は、見付天神の通称で呼ばれている。延喜式内に列した古社である。 例祭は旧暦8月11日前の土曜、日曜に行われ、宵宮には600年の伝統を誇る鬼踊りの神事がある。この神事に加わるものは1週間前に鮫島海岸へ出かけ、潮を浴びて身を清める。宮司はじめ同社の関係者は浜において禊をするとともに、榊をとりつけた鉾に神を依らしめ、12個の浜石と一緒に迎えてきて拝殿に祀る。一方、宵宮の日に、元天神(現社地の東北2キロ)において神籬(ひもろぎ)を立てて祭りを行い、を迎えてくる。神幸のある通り路の数カ所に榊が立てられてい、その場で御柴迎えの神事をする。 その夜は白鉢巻きをして晒しの下帯を腹に巻き、新藁の腰みのをつけ、足袋に草鞋がけといった出立の氏子(男子)たちが、老いも若きも町内ごとに一団となってワッショイ、ワッショイと練り歩き、夜半の花火を合図に続々神社へとつめかけ、拝殿いっぱいに揉み合いを演ずる。町内の先駆けが万灯と鈴とをうち振り数次にわたって気勢をあげる。 真夜中に御輿渡御がある。これに先立って、榊を手にした一番触れが鈴を鳴らしながら町々に渡御を告げて回る。次いで二番触れがやってくると、これを合図に町中消灯する。この時遷座式をすませた御輿が出発する。三番触れが渡御を告げる。行列は大松明を先頭に御輿を奉じて疾走しようとする。裸の群衆はこれを待ち構えていて一斉に群がり寄り、たちまち揉み合いとなる。やがて群衆の拍手に送られて暗闇の中を飛ぶようにして淡海国玉神社へと向かう。着御を告げる花火を合図に再び町中に明かりが点る。 鬼踊りの起源について諸説がある。その一つに早太郎ないしは人身御供となった娘の供養のためというのがある。これは早太郎伝説に基づいており、その名を悉平太郎ともいう。
 延慶元年(1308)の昔、ひとりの雲水が見付の村に通りかかり、人家からもれる人々の泣き声を耳にする。この村では毎年、矢奈比売天神社に人身御供を差し出すのが習わしで、当年はこの家の棟に白羽の矢が立ったので娘を捧げることになり、いま別れを悲しんでいるところだった。聞けば怪神が「このことばかりは信濃国の早太郎に知らせるな」と言って現れるという。雲水は早速、信濃に赴いて早太郎を捜した。それは駒ヶ根の光前寺の飼い犬だった。雲水はこの犬を借りて帰ると、ともに白木の唐櫃に潜み、娘に変わって人身御供となった。8月10日の夜更けのこと、例年の如く怪神が現れて唐櫃の蓋をかき破った。その時早太郎が身を翻して怪神に飛びかかった。激戦の末に相手を倒したが、早太郎もまたその場でこときれてしまった。その正体は年を経た狒狒の化け物であったという。 狼のような精悍な面魂をのぞかせた早太郎の像が見付天神の大鳥居の前に立っている。また、光前寺で長くその霊を祀って供養している。 雲水はそのころ天神宮内に在った一実坊に擬せられている。一実坊の写した大般若経六百巻が正和五年(一三一六)に光前寺に施入されている。かくして、天竜川を介して光前寺と見付天神とは深く結ばれている。また、磐田市では駒ヶ根市と友好都市の縁を結び、早太郎の徳をしのんでいる。 早太郎伝説は説話「猿神退治」を素材としている。この物語は全国に広く語りつがれているものである。それによれば、人身御供の村へやってきて、その患禍を取り除いてやったのは狩人と悉平太郎であった。昔、山つきの里は野獣の出没に悩まされた。それらの所では専門の狩人を頼んで、駆除にあってもらった。信濃は諏訪派の狩人の本拠地である。ところで、わが国では古くから山の霊獣、狼を”お犬さま”と称して信仰してきた。北遠はこの信仰の中心をなしている。人人は狼の威力を頼んで野獣を除けたり、人に憑いた狐を追い払おうとしてきた。



山住信仰

 水窪川の支谷河内浦渓流の水源、1、100メートル余の峰に山住神社が鎮座している。和銅  2年(七〇九)に伊予国(愛媛県)は大山祇(おおやまずみ)神社から大山祇神を勧請いたのに始まるという。社伝に、養老元年(七一七)に勅願所となり貞観年間(八五九〜七七)中に勅使が二度下ったこと、保元年間(一一五六〜五九)に守屋兵部少輔が社殿を造営し、熊野三社を本社に合祀したことなどがある。元亀三年(一五七二)の三方ヶ原合戦に際し、徳川家康は本社に祈って勝利をおさめたので祈願所とし、さらに関ヶ原合戦の後、報賽のために社殿を造営して数々の神宝を奉献したという。なおこの山一帯は河内浦に居を構える山住民の領する所となっている。権勢者には戦勝の神であったが、地元天竜川中流域の人々にとっては邪気退散の神であった。
 山住神社には遠州一円をはじめ、信州伊那地方から多くの参詣者があった。
 山住信仰の特色は狼の信仰にある。狼をもって祭神の表徴ないしは眷属とみなしている。
 天竜川中流域の山村ではヤマサク(焼畑)多く作る関係上、猪の害にはほとほと手を焼いていた。猪の侵入を防ぐために、山林と耕地との境に猪垣を築いたり猪堀を掘ったりした。佐久間町川上の本村にはその堀跡がある。他にカコ(ぼろきれ)を燻し、臭気を漂わせたり、小屋を設けて板木や空かんを打ち鳴らすなど、種々の防御手段がある。なおかつ害をこうむることがあるので、野獣除けのために山住さまからお札を受けてきて、畑の畦に立てる。  お犬さま(狼の別称)のお姿を木版刷にしたお札を今でもよく見かけるが、これを立てておけば山住さまが畑の番をして野獣を追い払ってくれると信じられている。
 遠州には狼の話が多く伝えられている。「静岡県伝説昔話集」にもたくさんの狼伝説が収録されている。狼は元来獰猛な野獣である。それゆえに人々は恐怖の心をもって接してきた。これに襲われた話、夜道でつけられた話、喉にひっかけた骨を抜いてやった話など数多く伝えられている。観音堂の別当で、西浦田楽の祭主役をつとめる高木英郷氏からも狼の話を聞いた。
 昔の狼は恐ろしいが、神の眷属である狼は人に危害を与えはしない。猛獣としての狼と、観念化された霊獣としての狼とが存在し、人々はこの霊獣をお犬さまと呼んで信仰してきた。ただし、狼と山犬とを一つにしていることが多く、通常日本人が狼としている獣は、動物学上のオオカミかどうかはわからない。とにかく、人々はこれを恐れかしこんで万葉の昔から、大口真神(口の大きい神の意)または大神とも呼んできた。人々はその威力を頼みとして、田畑を荒らしまわる害獣を払い退ける、人に憑いた霊獣を落とすなどの呪術を行ってきた。

(出典不詳)





天竜川の文化

 日本は川の国である。全国至る所に川がある。川と人との関係もおしなべて密接である。
 ところで、川には大きな川のあれば小さな川もあり、また急流の川もあれば穏やかな川もある。立地条件も一様でない。時代や流域により、川の機能ないし役割も異なっている。川の文化には普遍的なものもあれば特異なものもある。
 静岡県の地形は周知の如く山地が海に迫っているため、天竜川はじめ大井川、安倍川、富士川などは、延長の大部分を占める上流・中流は山間にあり、下流に至って扇状地を形成している。歴史的にみて、山間部は露出した岩礁や流れの急な険阻で、扇状地は砂石の乱流する氾濫原であった。上流・中流の集落はほとんどは焼畑を主とする農業と狩猟および林業を営む山村で、山地や丘地に依拠し、川漁などのほか川との交渉はあまりなかった。一方、扇状地でも開拓がなかなか進まなかった。近世に入ると事情が一変した。
 山村の年貢対象物である林産物や築城その他のための用材の流送が行われるようになり、険阻も浚渫された。これに刺激されて水運の盛行期を迎える。同時に河岸や河口港が発展する。扇状地の方も土地利用が急激に展開する。こうして川との関係を深めていく。

川の流通性
 川は自然の通路である。その昔、北九州を根拠地とする宗像神など海神・龍神を奉ずる海人の一派が木曽川や天竜川の渓谷を遡上、内陸奥深く移り住んだという。安曇という郡の名は海人の宰領家に因む物である。かの有玉伝説も海人の伝承である。中世には修験・法師などが天竜川を遡上し、中流域の山地に落ち着いた。また南北朝の落人たちも流域の奥深くに隠れ住んだと伝える。
 太古から交易ルートであったことを蜆塚・伊場遺跡の出土品が示している。
 川は神々の通路であり、このルートを通じて諏訪信仰がもたらされた。天竜川流域には諏訪神社が多く鎮座し、天竜市二俣の諏訪神社は、漂着神伝説を有している。また、笠井の観音も、川上から漂流してきて河原に埋まっておったのを、土地の人が発見して、お祀りしたと語り伝えている。
 見付天神と光前寺を結ぶ早太郎伝説にも川上と川下との交流の一端がうかがわれる。流域は一つの文化圏を形成しているといえよう。
 川の源も常世へとつながっている。聖なる水に乗って神霊や祖霊が来去する。それは民族事象の具現するところである。
 水運時代を迎えると、夥しいまでの木材や産物が川を下り、米・塩をはじめとする食料品が川を上った。それは近世初頭から昭和10年前後まで続いたが、急速に発達した陸運にとって代わられた。南信地方や中南遠地方にそれぞれ川船が就航し、非常なにぎわいをみせたものである。木材は通しで下流まで送られ、河口港から海路消費都市へ廻送された。また他国の産物も、この河口港を通じて内陸に送りこまれた。

川の遮断性
 川は自然の障壁で、往来の自由を妨げる。戦国武将はじめ江戸幕府はそれを戦略に利用した。浜松城主時代の徳川家康は天竜川と二俣川とに挟まれた天然の要害に二俣城を築き、武田信玄の大群と対峙した。また、天下の大街道である東海道が交叉する駿遠の大河川には架橋をせず、富士川と天竜川は、渡船、安倍川と大井川は川越しであった。会所を設けて渡河を厳重に取締り、増水になれば川留をした。馬子唄にも「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とあるが、旅人の嘆きはいかばかりであったろう。
 川は山などとひとつで自然境界をなしている。川の彼岸は他郷、ないしは異郷である。渡河地点に神を祀るのもそのためである。川を渡ることは故郷を遠く隔たることである。旅人は渡河にひとしお郷愁を催す。「伊勢物語」を引くまでもなかろう。
 次に民族文化によって遮断性を検証してみよう。まず方言を例にとってみると、東西方言の境界線が新潟県の親不知と浜名湖とを結んでいる。東西の方言がほぼ糸魚川と浜松をつないだ線によって隔てられているといえる。ただし、太平洋側においては単語によって境界線が移動し扇状に開いている。尾張ファンといわれる現象である。東海地方は日本の回廊として交通や文化の交流が頻繁であったことを物語っている。なお、天竜川は東西商業圏の境をなしているともいわれる。



烏喙将軍(うかいしょうぐん)

開元年中のことであった。郭元振(かくげんしん)というものが、晋(しん)から汾(ふん)に旅をしていると、夜道に迷ってしまった。いくらいっても人間に出逢わぬので、「困ったな。泊まるところも見つからないで」と呟いていると、どこからともなく人の泣き声が聞こえて来た。「はて、変だぞ。何事だろう。」と、声をしるべに尋ねていくと、一軒の家があって、その一間で美しい女がさめざめと泣いていた。郭元振は驚き怪しんで、「そなたは果たして人間か、それとも鬼か」と尋ねると、女は、「人間でございますとも」と答えた。「どうしてただ一人、そこで泣いているのじゃ」と、郭元振が尋ねた。「それには仔細がございます。私の郷に烏喙将軍というものがいまして、よく人間に福を与えたり、禍を下したりするのでございます。で、毎年、郷の者が美しい女を選んでは、烏喙将軍のお嫁にささげて、利得をはかります。私の父も利に迷って、私にお酒を飲ませて、酔い倒れたのを見まして、この部屋に閉じこめていったのでございます。」と、女が答えた。郭元振はこれを聞くと非常に腹を立てて、「烏喙将軍とやら、実にあやしからぬ怪物じゃ。よし、わしがそなたを助けてやるから、安心するがよい。いて其奴はいつになったら、やって来るのじゃ。」と尋ねた。「夜の二更でございます」と、女が答えた。
 夜の二更になると、果たして烏喙将軍がやって来た。郭元振はいきなり物陰から躍り出して、刀を抜いてその腕を切り落とした。将軍は声も立て得ないで、こそこそと逃げ出した。
 夜が明けはなれてから、切り落とした腕を見ると、それは猪の蹄であった。郭元振は、「なんじゃ、猪の怪であったか。重ね重ね不埒(ふらち)な奴じゃ。」と、すぐに郷の人達を呼び集めて、夜の出来事を話し、猪の蹄を見せて、「どうか、みんなで怪物を探し出してもらいたい。」と頼んだ。郷の人達は、弓矢を手にして、こぼれている血潮のあとを辿って尋ねて行くと、とある大きな塚のほとりに出た。塚の中には、大きな猪が寝ていた。見ると前の蹄が失くなっている。猪は人々が押しよせて来るのを見ると、あわてふためいて塚の中から逃げ出した。人々は追いに迫って、とうとう殺してしまった。<幽怪録>  「中国神話伝説集」


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